キャラクターメーカー(大塚英志)

----- 「キャラクター」とは「デザイン」するものではない --------------
 ・「キャラクター」は「物語」と不可分の関係にある
 ・「属性」などダイスの目で決めてしまおう。ダイスの目の中にさえ、つくり手の「私」に根ざす表現は存在可能である

----- アバター式キャラクター入門 ------------------------------------
 ・アバターとは、こちら側の人間がもう一つの世界を生きるための「化身」
 ・アバターは、自分自身を見つめる視点を内包しながら、しかし構成要素に還元できてしまう(アバターに固有性はあるのか、ないのか)
 ・キャラクターの要素を分割して、「置き換え可能な水準」で入れ替える
 ・外見の「属性」のみならず、たとえば「ツンデレ」という「属性」は「男性に対する行動規範」という置き換え可能な水準で「妹系、お嬢様系、ツンデレ、、、」といった形で選択されるもので、論理的には無数に選択肢がある
 ・【課題】「体の部位」と「動物」を列挙する、サイコロを振ってそれぞれから一つ選ぶ、その組み合わせでキャラクターを作ってみる(※ツール
 ・「順列組み合わせ」的なキャラクターづくりにおいて独創性が制限されるとすれば、そのような考え方のみが問題なのではなく、むしろ、その選択の自由度が個々の作り手に半端に委ねられている点にあるのではないか
 ・体の一部分が他の生物のそれ置き換わるというイメージは、本来はグロテスクで生理的な琴線に様々に触れてしまう質のもの
 ・「物語論―プロップからエーコまで」(著:ジャン=ミシェル・アダン)
 ・「キャラクターマトリックス」(監修: 塚本博義)

----- トトロもエヴァンゲリオンも「ライナスの毛布」である ------------
 ・キャラクターづくりの技術として求められるのは「私」をリアルにカミングアウトすることではなく、キャラクターに与えられた「私」を作り手が自分の中の「私」と必要以上に混同しないこと
 ・【課題】自分の現在の両親が本当のお父さんお母さんではなくて本当の両親が別にいると想像する。そして、その本当の両親について考えた文章をあなたの一人称叙述で短い文章にしてください
 ・「読者は君の『私』について知りたいのではない」
 ・「私」をキャタクターとして御(ぎょ)し切れていなければ「文学」も「ノベルズ」も書けない
 ・幼児が母親から分離する過程で代替物として「移行対象」が必要になる
 ・たとえば「スヌーピーとチャーリー・ブラウン」のライナスがいつも手にしている毛布が「移行対象」
 ・「移行対象」は幼児から成人に至るまで、精神的な意味で「大人になりきれない」人たちに必要とされる
 ・「移行対象」のキャタクターは、そこに「居る」または「在る」だけの存在
 ・【課題】主人公にとっての移行対象を作ってみよう
   1.設定は何でもいいので主人公を一人つくる。何らかの「不安」「トラウマ」「未熟さ」を抱えること
   2.主人公にとっての移行対象(キャラクターまたはアイテム)をつくる
 ・主人公は「移行対象」をいつか捨てなければならない
 ・この移行対象をつくるワークショップは、どんなにフィクションをつくろうとしても、どこかでつくり手の「私」がキャラクターに重なります。けれど、その「私」の不安をもう一度キャラクターやアイテムにすることで、「私」とほどよく距離がとれて、しかし、それぞれの「私」に根差した魅力的なキャラクターが既に物語とともにそこにあることがわかります

----- 手塚キャラクターは何故テーマを「属性」としているか ------------
 ・アトムというキャラクターは「成長しない体(記号としての身体)」と「成長することを求められる身体(生身の身体)」の双方をあわせ持つ、メタ的なレベルの「属性」をもつ(アトムの命題)
 ・【課題】「アトムの命題」を属性としてもつキャラクターをつくる
  ・「ブラックジャック」のピノコの以下の属性を抽象化して、それを再び具体化して新しいキャラクターをつくる
  ・属性、ピノコは「奇形腫」から取り出された生身の肉体がブラックジャックによってつくられたプラスチック外殻の中に入っている
  ・属性、ピノコは外殻が幼女の姿をしているが自分では大人の女性だと思っている
 ・エリアーデによると、民話は加入儀礼(通過儀礼ともいって、人が「大人」になるための宗教的儀式)と密接な関係にあって、しかし、近代になっても尚そのような物語は「娯楽」つまりは小説や映画の形をとって生きのびていて、「重大な責任」をもっている
 ・「大人になることの厄介さ」は近代の方がずっと過酷だからこそ、むしろ「大人になること」の困難さを主題とする物語が求められる
 ・男の子が女の子として育てられる理由のリアリティなどはどうでもよくて、思春期の男の子が女の子のフリをして生きるという状況そのものが、どんなに荒唐無稽な設定でもキャラクターをリアルなものにする

----- 雨宮一彦の左目にバーコードがあるのは何故か --------------------
 ・「聖痕」という主人公にしばしば用いられて相応に魅力を発揮する「属性」は、表現のされ方によっては「差別」表現に連なるリスクをはらんでいる
 ・何かが「欠如」した状態から民話のストーリーは動き始める
 ・均衡と不均衡を極とする形で物語は進む
 ・主人公に「欠如(過剰)」があると物語が動きやすい、その意味で「聖痕」は主人公の属性として魅力的である
 ・「不良少年」という表現があっても、「善良少年」という表現はない
 ・「徴(しるし)」はキリスト教的な「聖痕」観でいえば「秩序」を回復する役目を担わされた聖人の証。つまり見方によっては主人公が主人公である証拠。その一方でギリシャの昔に戻れば「差別」と結びつきもする
 ・「徴」ないし「標」は「私の証明」アイテムとして、つまり主人公が主人公である証しとして、物語の中で求め続けられる
 ・【課題】聖痕つきのキャラクターをつくってみよう(※ツール

----- 自分からは何もしない主人公を冒険に旅立たせる-------------------
 ・主人公は主人公以外のキャラクターから何かを働きかけられることで初めて動き出す(敵との戦いでさえ、敵からの働きかけである)
 ・主人公が物語の上で自ら果たす役割は極めて少ない
 ・主人公の出立には、「探索者型(何かを探しにいく)」「被害者型(追い出される)」がある
 ・グレマスの行為者モデル。物語とは「主人公」が「誰か」から「対象物」をどこかに届けてくれと頼まれて、「誰か」がそれを邪魔し、「誰か」がそれを助けてくれる
 ・ジョゼフ・キャンベルの単一神話論。古今の英雄神話は「一つの合成された冒険形態」で表現しうる
 ・キャンベル。英雄の神話的冒険が通常たどる経路は、通過儀礼を説明するさいにつかわれる公式「分離・イニシエーション・再生」を拡大したもので、これは原質神話の核心を構成する単位である
 ・儀礼の最後に参加者は象徴的に「死ぬ」、そして「大人」になって元いた現実に「生まれて」くる
 ・単一神話論における旅立ちの5つのプロセス。「冒険への召命」「召命の辞退」「超自然的なるものの援助」「最初の境界の越境」「鯨の胎内(一度死ぬところ)」
 ・「単一神話論」も含め、物語論は分析の理論ではなく「創作」に応用できる
 ・前に出て行く主人公の場合、旅立ちを望まないキャラクターを脇に配置する
 ・特殊な力を持つ「呪具」も「呪力をもつ助手」も物語の構造上、同じもの
 ・「神話の法則」(著:クリストファー・ボグラー)
 ・ボグラー、ハリウッド映画におけるキャラクターの類型。「ヒーロー」「賢者」「門番」「使者」「変化するもの」「シャドウ」「トリックスター」

----- 影との戦い ----------------------------------------------------
 ・「敵対者」とは見せかけ上の「敵」や「悪人」では必ずしもない
 ・一人のキャラクターが物語の進行に果たす機能を複数もつこともある
 ・ハリウッド映画の「悪」を象徴するキャラクターは、主人公の進むべき方向と正反対の方向や価値観に向かって、いわば負の自己実現をしていく
 ・「影」を救済することで主人公は自己実現する。「影」として描かれたキャラクターは主人公の自己実現を「援助」する最も決定的なキャラクター
 ・物語は必ずしも「正の自己実現」で終わる必要はない。むしろそれに固執しすぎると、独善的な物語になる
 ・「敵」や「悪」は主人公の「影」であり、必ずしも作中で全否定されるものではない

----- キャラクターは「戦略」になるか --------------------------------
 ・過去の青少年の犯罪に於いてもしばしば未完成や不完全な物語がノートやパソコンに残されている。それらのテキストは「私」を「物語化し誤っている」
 ・不穏当ではあるが、「犯行予告」や「犯行声明」でさえも「形式」の一つ
 ・私についての存在証明や承認要求を「書く」という行為と結びつけた時、それを「出力」するフォーマットが重要
 ・犯罪青少年に欠けていたのは「才能」や「運」ではなく、適切に「学習する」という行為ではなかったのか。そして、少なくとも「物語を作る」という領域については、その学習マニュアルを作れそうだ
 ・「物語」とは「成長」のためのアルゴリズム
 ・人の内側に、もやもやして不確かな何者かがあり、それを一人称の私小説的「私」に代入しても、それはどうにも不安定な「私」をただ投げ出すだけにしかならない。であれば最初から「私」ではない別の「キャラクター」に代入した方がいいのではないか
 ・「私」も<キャラ>に過ぎないが、仲々、人はそう思えない。「私」を相対化したり距離をとってクリティカルに書くのはけっこう難しい。しかし<キャラ>の中に「私」を入れてしまえば、自ずとクリティカルになる
 ・リアルではない「キャラを描く」という行為は、どうやらアイデンティティの不安への処方箋となっているようである
 ・アイデンティティの不安と「キャラ」は結びつきやすい
 ・脅迫文や、「いいね!」をクリックすることや、見も知らぬ人のサイトを炎上させること以外に、もう少し手間をかけることでしか人は「何か」になることも「どこか」に行くこともできない

 ※本文章は「キャラクターメーカー/大塚英志(著)」を引用または要約して記述したものです
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